人間の心理

心理学から紐解く人の心理

「家康が大手柄の猛将を即切り捨てた理由」

<家康は部下管理のプロ>

あの大将首を獲った武将をクビにしろと徳川家康が放った一言は実は部下管理のプロとも言える、大手柄の猛将を即切り捨てた納得の理由があるという。
ホトトギスの川柳に代表されるように、織田信長豊臣秀吉徳川家康は、戦国三英傑の性格や人柄について色々と言い伝えが存在する。

しかし、歴史小説家の童門冬二さんからすると、イメージを覆すようなエピソードがあるそうだ。

天下人の意外な一面を戦国三英傑の知られざる横顔に迫ってみる。

<リーダーとしての三人の差はどこにあるのか>

先にも述べたが、信長・秀吉・家康の三人の性格をいい伝えた言葉に、有名な「鳴かないホトトギス」に対する川柳がある。

信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス

家康「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス
これは、天下人としての歴史に対する役割分担を表しているものだという説もあるし、3人の性格を言い表したものだという説もある。

性格説に従えば、信長は短気であり、秀吉は自信家であるし、家康は忍耐家であるということになる。一般に、この性格説が行き渡っているので、リーダーに例えれば以下のようになる。

信長→決断力に富み、あまり部下の意見を聞かず、時に冷酷残忍であり、非情なダンプカー的リーダー。

秀吉→手柄を立てれば金や褒美を惜しまず巧妙なお立て型の為、下の者の受けが良い。

家康→幼少期からの苦労人で部下思いの為、先の2人に比べると結束力が最も強い。

ただ、言い伝え通りの人間だったのかを覆すエピソードも幾つかある様だ。

<人間的温かさのある信長>

ある年の春、信長は出陣し、尾張国を通過中、畑の脇を通りかかると、ポカポカ暖かいので、一人の農夫がいい気持ちで草の上で寝ていた。

これを見た信長の部下が、無礼者だとし「見送りもせず高鼾をかくとは許せません、血祭にしましょう」と息巻いた。

ところが、信長は笑って「止めろ、俺の国では農民がいつもああいうように、高鼾で寝られるようにしたい、それが俺の願いだ」と答えたという。

この言葉は、戦争好きな信長が、実は日本に1日も早く平和をもたらしたいという志を持っていた事を示すもので、同時代人のニーズをよく知っていた事が伺える。

特に民衆が、一日も早く戦国を終わらせて生命や財産に安心感が持てるような世の中にしてほしいと願っていると知っていた。

集団戦法や科学兵器を導入して、戦争終結のスピードアップをした理由がこの願いからだ。

<この金でこの男に家を建ててやれ>

信長が、岐阜城を出て京都に向かった時の話、美濃と近江との境にある山中を通過した時、一人の物乞いが現れ、まるでサルの様に信長に手を差し出し、何かくれと言う、すると信長はその男に聞く「何故こんな山の中でおまえは物乞いなどしているだ?」

男は応える「昔、この山中を通る落人の女性の着物を剝ぎ、持っていた金品を全部奪ったことがあります、その後、その女性がどうしたのか気になって、毎日苦しんでいるうちに、こんなサルのような姿になってしまいました、おそらく、天の罰が当たったのでしょう、ですから、里へ降りずに、その女性への罪を償うために、こうして物乞いをしているのです」この時、信長はただそうかと頷いただけで、通り過ぎる。

だが、京都からの帰り道、またサルのような姿をした物乞いに遭ったので、信長は付近の村人を全部集め、持っていた金を出してこういった。

「この金で、この男に家を建ててやってくれ、そして残りで畑を切り拓き、穀物が実ったらその一部をこの男に与えてやってほしい。残りは、全部皆で分けてくれ、この男は殊勝な気持ちの持ち主なので、皆が優しくしてやれば、やがてはサルからもう一度人間に戻ることができるだろう」

<嬉しそうに笑った信長>

信長の優しい気持ちにほだされて、村人たちは、必ずそうしますと誓った。

一年後、信長がまた山中を通過したとき、辺りは見違えるようになり、そして、慈しみ深い表情をした1人の中年者が走り出て、信長の前に手をついた。「誰だ?」聞くと、男は、「あのサルの物乞いでございます」といった。信長は驚いた。

「見違えたぞ、一体何が起こったのだ?」
「あなた様のおかげでございます、村の人たちが大変温かくしてくださり、今ではこうして村の為に色々と働かせて頂いております、それと、いつかお話しした私が物を盗った女性が、この間たまたまここを通り掛かりました、私は、あの時のことを詫びて、盗った物を全部返しましたが女性は、そんな事はもう忘れたと言ってくれました、気持ちがスッキリ致しました、それで私の気持ちが洗われ、もう1度人間に戻る事が出来ました、有難う御座いました」これを聞き信長は嬉しそうに笑い、そして男に「良かったな」と言った。

<信長の国では強盗も人殺しも出ない>

信長が治めた岐阜や安土は、道路や橋が整備され、今で言う都市基盤が整備され、又それだけではなく信長の治める国では、絶対に強盗や人殺しが出なかったという。

つまり、夏でも住む人々は窓や戸を空け放したまま寝ることが可能で、旅人が木の陰で寝込んでしまっても、持っている荷物を盗む者は誰も現れず、信長の意外な優しい一面が伺える。

若い頃の信長が、うつけぶりを発揮していたのを悲しんで、傅役の平手政秀が諫死する。

信長はかなり傷付き、事あるごとに空に向かって政秀の霊に「政秀、元気か?」などと呼びかけており、これも、信長の意外な一面である。

本当はそういうふうに優しい一面を持っていたが、何しろ彼が歴史に対して果たさなければいけない役割は「日本の古い価値観の破壊」だった為、ゆっくりしていられなかった。

時代の疾走者であった故に、様々な誤解が生まれたとされている。

<人情家だが意外に冷たい秀吉>

巧妙なおだて型リーダーであり、人情家であった秀吉は意外と冷たい面があったという。

出身地は尾張の中村だ、天下人になった時、出身地である中村の住民たちが、秀吉の所に大根と牛蒡を持って来ると、大根と牛蒡は中村の名産品であると秀吉は喜んだ。

「これからも毎年、年頭の祝い物として大根と牛蒡を届けてくれ、その代わり、中村に対する税は免除しよう」と言われ、農民たちは喜んだ。

後に、秀吉が関白太政大臣になるが、やがて農民達は悩む事になる。

人民として最高の位に就いた秀吉様に、今度の正月の祝い物が、相変らず大根と牛蒡で良いのか…

村人達は相談し結局、大根と牛蒡を止めて、その年から、当時かなりの貴重品だった越前の綿を献上する事にした。

ところが秀吉は顔色を変え怒ってこう言い放つ「馬鹿者!何故越前の高い綿など俺の所に持って来るのだ、今の俺は、日本中欲しい物は何でも手に入る、俺が欲しかったのは、土だらけの大根と牛蒡だ、生まれ故郷である中村の素朴なおまえ達の気持ちだ、それを、俺が少し偉くなったからといって、変な勘繰りをし、こんな品物を持って来る、それだけの余裕があるのなら、今年からは他の村と同じように税を課する、いいな!」

その時、秀吉は、まさに鬼のような表情で、中村の農民たちは震えあがる。

そしてつくづく自分達の心得違いを悟ったが、秀吉は許さず、生まれ故郷である中村も例外としないで、普通の税を掛け続けたという。

<秀吉が批判した信長の欠点>

信長が死んだ後、秀吉は信長について語った内容は「信長様は、勇将ではあったが良将ではない、一旦他人を憎むと、その恨みは最後まで続き、その人間だけでなく、家族も根絶やしにしなければ気が済まなかった、信長様は人から恐れられはしたが、愛される事はなかった、明智光秀が反乱を起こしたのもその為だ」

秀吉は、信長に発見されたからこそ天下人への道を辿れた人物だ、信長を絶対の主人と考え、信長の履く草履を胸に抱いて温めるほどの忠義ぶりを尽くし、あれだけ側にいて信長の全人格を知り尽くしているにも関わらずこの様な批判を加えている。

つまり、信長の温かい面が、やはり秀吉にも完全には理解されていなかった事になる。

ただこれは、裏を返せば秀吉の人間洞察力にも限界があったという事にもなる。

<部下の私があなたをクビにするということ>

秀吉には「主人は一年、部下は三年」という言葉があり、これは秀吉に言わせれば「主人が部下を駄目部下かどうかを見抜くのは一年、反対に部下が主人を駄目主人かどうかを見抜く期間は三年だ」という事だそうだ。

秀吉は若い頃浜松に行って、松下嘉兵衛という今川家の部将に仕えた。

要領のいい秀吉は間もなく、会計責任者になった。ところが、これに嫉妬した古い松下家の部下達が「秀吉は金を盗んだ」と噂を立て、困った松下は秀吉を呼んで「噂が噂だと知っていが自分は古い部下達も大事にしたい、悪いがおまえは新参、退職金をやるから出ていってくれ」と言った。

この時秀吉はこう応じた「出ていきますが、あなたが私をクビにするのではなく、部下の私があなたを駄目主人とみなしてクビにするのですので退職金はいりません」

これは、主人が部下を選ぶ権限があるのと同様に、部下の方でも主人を選ぶ権限があるということを表している。

つまり、下剋上の思想を、秀吉もはっきり持ち、実行していたことを物語っている。

<家康が手柄を立てた武将をクビにした深いワケ>

部下思いの家康に、こんな言葉がある。

「水はよく船を浮かべる、しかしまたよく覆す」

鋭い言葉だ。

水を部下、船を家康に置き換えると、意味がはっきりしており、つまり、家康にとっては「部下というのはそれほど油断のならないものなのだ」と考え、家康の部下管理法は、人情一辺倒だった訳ではなく、相当に知的な工夫が凝らされていた様だ。

ある合戦で、ある大名の旗本が敵の大将の首をとって、真っ先に家康のところへ見せに来た。

家康はその旗本を誉めたが、こんな事を聞く

「おまえが敵の大将と戦っている時、おまえの主人は何をしていたのだ?」

旗本はちょっと考えたが「さあ、戦いに夢中になっていて分かりませんでした」と応える。

旗本が去ると、家康は使いをやってその大名を呼ばせ、そして「さっき自分のところに首を見せに来た旗本をクビにしろ」と言った。

大名はビックリしたが「いや」と家康はクビを横に振った。

「旗本というのは、どんな時も必ず主人の側にいて、守らなければならない役割を負っている、それを乱戦になったからといって、自分から敵の大将の首を取りに行くような旗本では役に立たない、もし、その間にあなたが殺されたらどうするのだ、そんな旗本は自分の責任を放棄しているのだ、クビにしなさい」大名は今更ながら家康の厳しさに背筋を寒くしたという。

<家康の硬軟使い分けの妙>

家康が岡崎城主だった頃、夜になると城には3人1組で宿直者が泊まった。

ところが、3人は相談して、1人が残り、2人は近くの花街へ遊びに行く慣わしにした。

ある夜、2人が花街に行ってしまうと、家康が入って来る、残っていた1人は驚き、真っ青になった。

当然家康は「他の2人はどうした?」と聞く、家康は既に2人が遊びに出掛けていることを知っている。

嘘がつけず残りの1人は実はこうこうだと白状。

家康は、その宿直者の肩を叩いてこう言う「おまえは馬鹿だな、何故一緒に遊びに行かない? 今夜は俺が宿直をするから、おまえも早く行って遊んでこい」真っ青になった宿直者は、遊びに行った2人の所に飛んで行き、2人も真っ青になって帰って来た。

家康はニコリと笑うと「これからは気をつけろよ、まだまだ油断ができない世の中だからな、今夜のことは忘れよう」と言った。

<まとめ>

この様に硬軟使い分けをするあたりが、家康の人情の機微に触れた、つまり、心憎い管理法だった事が伺える。

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